ご挨拶

市議会議員に初当選したとき、娘は6歳と4歳。子育て中のママ議員として、保護者としての視点を大切にしてきました。子育てや教育に関する相談も受けながら、その声をまっすぐ市政に届けてきました。
幼いころから戦争が怖くて、母に何度も「日本も戦争になるの?」と尋ねました。母はそのたびに、「日本には憲法9条があるから大丈夫」と言ってくれました。2度と戦争はしないと誓った憲法9条を絶対に守りたい。その強い思いから、戦前より戦争反対を貫いてきた日本共産党に入党しました。

略歴

上林まさえ

1973年小平市生まれ
自由の森学園では合唱に熱中
派遣社員として12年働く
市議会議員1期・厚生文教委員会所属
仲原4丁目在住
小平に住んでいたころ公立保育園の廃園・民営化反対運動に関わる
家族は夫・二女
趣味はマンガを読むこと・最近のお気に入りは「鬼滅の刃」

3姉妹の次女、お調子者の子ども時代

小平市津田町で3姉妹の次女として誕生。 姉、妹とは学校ごっこやミュージカル「サウンド・オブ・ミュージカル」ごっこ、マンガの「キャンディ・キャンディ」ごっこなどをして遊んでいました。 学校での休み時間や放課後は、男の子たちとキックベースやドロケイで遊んだり、クラスで「おもしろい女子」にランキングされたり、お調子者の子ども時代でした。  

合唱に夢中だった自由の森学園での3年間

小学校のころから合唱が大好きで、中学校では合唱部に入部。合唱が盛んな自由の森学園高校では、廊下も歌いながら歩くほどでした。同じく自由の森園に通っていた姉、妹とは、家でもパートに分かれてよく歌を歌っていました。

派遣社員として働いた12年間

市議会議員になる前は、12年間派遣社員として働いてきました。 派遣先の職場では、上司や同僚にめぐまれ、とても働きやすい環境で2度の産休もいただきました。でも、12年間働いても正社員への道が開かれることはなく、派遣の契約は3ヶ月に1度、不況の時は1ヶ月に1度という不安定な契約のもとでの勤務でした。長く一緒に働いていた派遣社員の仲間が派遣切りにあったり、数回にわたる大規模なリストラでは、多くの社員の方が辞めさせられていきました。リストラで社員が減っているのに仕事量は変わらず、連日深夜まで働く社員の姿を見て、企業の働かせ方に疑問を持ち続けていました。

自分も「声をあげ、社会を変えていく」側に

長女が2歳、次女が生後5ヶ月の時に起きた東日本大震災と原発事故。幼い娘たちを抱えて、まさか放射能に怯えて暮らす日が来るなんて…。 昨日までの輝きに満ちていた世の中から、急に色がなくなったような感覚でした。 なんとか娘たちを守らなければと必死の毎日でしたが、そのうち原発に反対する大規模なデモが連日行われているのを知り、いてもたってもいられなくなりました。これまでも、社会を変えるために、声をあげ、行動する人たちがいることは知っていました。けれど、自分が「声をあげる側」になるのは、敬遠していました。だけどもう傍観者でいることはやめようと、はじめてデモに参加しました。

公立保育園の廃園・民営化の反対運動に関わる中で、日本共産党の一員に。

当時住んでいた小平市で、公立保育園の廃園・民営化計画が明らかになりました。娘たちの通う保育園ではありませんでしたが、廃園予定となった保育園の保護者が、「公立保育園をなくさないでほしい」と声をあげ、私も署名活動や、公立保育園の大切さを訴える活動に参加しました。 働いている親にとって、保育園は、単なる託児所ではありません。子どもたちが日中を過ごす第2の家であり、保育士さんたちは第2のお母さん、お父さんです。安心して子どもを預けられることはもちろん、家庭と協力し、共に育てあい、育ちあう保育園は、大切な場所です。市の直営の保育園として、市が直接的に責任を果たせる公立保育園を守ってほしいと声をあげたことは、現在の議員活動の原点にもなっています。 この運動の中で、誰よりも熱心に私たちの話を聞いてくれて、行政に働きかけるためのアドバイスをくれたり、署名の紹介議員になってくれたり、親身になってくれたのが、日本共産党の議員さんでした。保育運動をする中で、日本共産党が、公立保育園を守り、認可保育園を中心に保育園を作るよう訴えていることを知りました。また、労働の問題についても、日本共産党は派遣のような非正規雇用でなく、正社員が当たり前の社会、長時間労働をなくし、誰もが人間として発達できる社会を目指していることを知り、日本共産党の一員になることを決意しました。

日本共産党の市議会議員として

日本共産党の市議会議員に立候補しないか、と要請があった時、娘たちはまだ小学校にあがる前で、とても議員活動はできないと、一度はお断りをしました。けれども、私が議員になることで、同年代の人たちが政治に関心を持ってくれるかもしれないと思うようになりました。そして、直接市政に声を届けることができる議員という仕事に、大きな魅力を感じ、決意に至りました。 その後、たくさんの支持者の皆さんや家族に支えられながら、保育園や学童保育の待機児童問題、子どもの医療費無料化、小中学校のエアコン整備、トイレの悪臭対策や洋式化、子ども食堂への支援など、子どもの育ちを保障する環境整備をはじめ、国民健康保険の6年連続値上げや介護保険の値上げストップなど、暮らしを守るために市議会で奮闘してきました。

子どもたちに平和な未来を手渡すために

原水爆禁止世界大会に、東大和代表団の一員として、家族で参加。広島と長崎に送っていただきました。毎年行われている平和行進にも、市民の皆さんとともに参加。東大和市にある戦災建造物、「日立航空機変電所」にも、家族で訪れ、そのたびに平和を守りたい思いを強くしています。

粘り強い要求で市の方針を変えさせ、認可保育園の新規建設へ

保育園の待機児童対策には特に力を入れてきました。市は当初、将来は少子化になるのだからと新たな認可保育園はつくらないという方針でした。しかし、保護者の願いは自宅の近くの認可保育園に預けること、共働き世帯が増え、少子化でも保育需要は増えているということをデータで示し、繰り返し市に要求。ついに市も方針を変え、現在新たな認可保育園をつくる検討を進めています。