ご挨拶

日本共産党を伸ばして国保料軽減を

2018年6月の杉並区議会に、日本共産党杉並区議団は、国民健康保険料の一部軽減を求める条例案を出し、多数を握る与党も反対できず、継続審議となりました。
区民の声とむすんだ日本共産党の奮闘が区政を動かしました。日本共産党杉並区議団を増やして、次の議会では条例を可決させましょう。

略歴

酒井まさえ

1957年、栃木県栃木市生まれ。
慶応義塾大学医学部付属厚生女子学院卒業。
慶応義塾大学病院、宇都宮共立病院、鬼子母神病院、東京健生病院、
せいきょう診療所、和田掘診療所、
すぎなみ中央訪問看護ステーションに勤務し、2018年8月退職。
趣味はコーラス。
家族は夫と2女1男、孫二人。

地域と共に看護師40年
困っている人をささえる議員に

議員さんと言うと、いつも頭の中にあるのは、栃木県大平町町議の大森さんです。私の父親はアル中で、家が大変でしたが、大森さんは夜でも駆けつけてくれたり、いっしょに断酒会に行ってくれました。
困っている人を支えるのが共産党の議員だと思います。そんな人になれたらと思います。


まさえものがたり

1957年、栃木県栃木市生まれ。父はお酒が好きでほとんど働かず、母が工場で働いて暮らしを支えていました。小学生のころから、障害を持つ同級生を体を張ってかばうなど、弱い者いじめには黙っていられない性格。中学、高校時代はハンドボール部に所属し、明るく活発な子どもでした。

働きながら看護師に

癌だった祖母の看護と看取りを経験したことをきっかけに、看護師の道へ。家は経済的にも苦しく、手に職をつけて早く自立したかったのです。18歳で准看護師の資格を取ると上京し、働きながら慶応大学病院付属の看護学校へ。組合活動や青年運動に出会います。
貧しくても強く生きたい。世の中のことをもっと知りたい…、そんな思いがさらに強くなり、20歳で日本共産党に入党しました。

東京で結婚。3人の子どもの母親に

26歳、青年運動で知り合った夫と結婚。杉並区に引っ越し、せいきょう診療所で働き始めました。
次女がダウン症で生まれてきたことは大きな試練でした。でも、「よその家に生まれたかもしれないこの子が、うちに来たっていいじゃないか」という夫の一言に、涙は止まり、娘を受け入れることができたのです。
その後、ダウン症児の親の会「杉並・青空の会」とつながり、3人の子どもたちは地元の小学校、中学校を卒業。保育園の父母会長やPTAの役員も経験。看護師として働きながら3人の子育てを通じて、たくさんの知人・友人そして仲間ができ、今でもつながりが続いています。

訪問看護ステーションを立ち上げ、ケアマネとして働く

和田堀診療所の往診や杉並中央訪問看護ステーションの所長として、地域に密着した医療・看護の現場で働き、介護保険の開始と同時にケアマネージャーの資格も取りました。患者さんたちの暮らしのすぐそばに、ユニフォーム姿で駆けつけ、訪問看護師として16年、地域の方々の命、健康に寄り添ってきました。
「酒井さんは明るくて朗らかで、困っている人は放っておけない、サザエさんみたいね」
患者さんのそんな声に支えられて、笑顔で働き続けられたのだと思っています。

酒井まきえさんに期待します!

安心して住み続けたくなる町のために
日本赤十字看護大学名誉教授
川嶋みどり(永福4丁目)

病人や高齢者、障害を持った方たちに寄り添い続けて40年。この看護師経験は、誰もが自分らしく生き、老いてなお、安心して住み続けたくなる町づくりに貢献する大きな力になることでしょう。
住民目線で、住民中心の区政を実現する酒井さんの活動に心から期待しています。

原田あきら都議からバトンタッチ

区政の即戦力!
酒井まさえさんに期待します
東京都議会議員・原田あきら

私が区議会議員のとき、医療や介護の議会質問をする際、必ず現場の実態を教えてくれ、原稿チェックもしてくれた酒井まさえさん。私の後継者といっても実際は、福祉分野の区政指南役でした。
また、私が20年程前に済美小で働いていたとき、酒井さんの娘さんが当時の障害児学級に通っていました。今でも娘さんとお会いすると、「原田先生!」と呼ばれます。
三人を育て上げた子育ての大先輩であり、障害者施策・医療と介護のプロ。区政の即戦力として、皆様に心から推薦します。