略歴

星見てい子

1957年  北海道函館市生まれ
1976年  函館市立北高校卒業
1980年  北海道教育大学卒業
1980年  児童養護施設・調布学園に就職
1982年  はとの森保育園、広尾上宮保育園勤務
1985年  日本民主青年同盟中央委員会勤務
1997年  日本共産党目黒地区委員会勤務
2007年  目黒区議会議員3期10年(17年2月まで)
2017年  東京都議会議員

都議会では、文教委員会委員長、都市整備委員会委員、東京都住宅審議会委員など歴任。現在、警察・消防委員会委員、東京都文化財団評議員。

目黒区内では、目黒原水協理事、大岡山憲法を守る会世話人、洗足9条の会事務局、目黒区国保運営協議会委員。

とっておき写真① 木馬

  思い出の写真で私のプロフィール紹介を連載します。 めざすは10回シリーズです。初回は、木馬です。 私は、北海道函館市生まれです。父は水道局の職員、母の実家は農家でした。星見家は明治に鳥取から北海道に移住し、私で5代目です。子どものころは、この木馬を含め何でも3歳上の兄のおさがりでした。木馬にクレヨンを塗ったり綱をひいて遊んだりとお気に入りでした。 そのせいか、今でも馬好き。帰郷すると牧場の笹薮で馬・道産子に乗ります。

 

 

とっておき写真② 函館北高校考古学部

函館市立北高校で考古学部に入部。以来、授業そっちのけで、バケツとスコップをぶら下げて裏山あたりの遺跡探し。 夏休みは、函館市博物館の依頼で道南の遺跡調査や発掘のお手伝い。冬は雪に埋もれて土器石器の整理。「将来は、博物館の学芸員」「ペルーでインカ帝国の研究を」と意気込んでいましたが、母と担任の反対で断念。今でも縄文土器ならおおよその年代がわかります。写真の右端が私。開発現場の調査で友人と。

とっておき写真③ 幻のダグラスDC-3型機

  1960年10月、私3歳、兄5歳。函館空港で父が撮影。飛行機マニアに譲ってほしいと言われた写真。 道内の有志が1953年に北日本航空を設立。写真の「DC-3型JA5058」機を1941年8月6日製造でハワイアン航空から購入。 買取交渉の際「真珠湾攻撃のとき零戦から銃撃された機体。もし墜落した場合はおまえら日本人の責任」とジョーク混じりに言われたというエピソード付き。 色は白地に赤と鮮やかな飛行機だったようですが、覚えていません。函館空港は、1971年ばんだい号墜落、1976年ミグ戦闘機亡命、1995年全日空ハイジャックもありました。

とっておき写真④ 私と叔母、ダブル定子

私は星見定子(ていこ)で叔母も星見定子(サダコ)。私の代まで星見家の子は「定(さだ)」がつきます。貧しさの中、7人いた父の兄弟で生き残ったのは「定」がつく3人だけだったためです。私は、叔母と同じ名前なので「ていこ」に。 叔母は、青森県米軍三沢基地で働き、1961年米陸軍コックのジョージと結婚。米軍住宅での叔父の足スベリ台が私のお気に入りでした。叔母に一番愛されたのが私。渡米後、米軍PXで働き、おもちゃや服などをよく送ってきました。叔父亡き後もアメリカに住み70歳で帰国。「ジョージと同じ墓に入れて」が私への遺言。 写真は、自宅の畑で、私3歳、叔母41歳。

とっておき写真⑤ 私と兄 SF好き

写真は私が11歳・小学5年で3学年上の兄と。毎月、「小学〇年生」「子どもの科学」を買って読んでいましたが、すぐ読み終わります。 次は、母の「暮らしの手帳」を読む。家の百科事典を適当に開けて出たページを読む。次は兄が買った本を読み終わるのを待って読む。 読む本が無くなると兄の教科書もこっそり読む・・・。 その中に、SF小説がありました。兄が星新一や筒井康隆に傾斜すると、私も同様に。早川文庫の「火星のプリンセス」が小学生で最初に読んだ長編。 アイザック・アシモフやクラーク、ディップ、ハイラインと米英の作家の作品を次々読んでいました。 アシモフの「銀河帝国興亡史」シリーズが一番好きで、映画では「スター・トレック」のファン。

とっておき写真⑥ 動物好き、猫集会参加

子どものころから生き物好き。昆虫、すずめ、鳩、ヒヨドリ、蛇、モグラ、猫など弱っていると拾って世話をしました。 蝶やセミは砂糖水を飲ませ、落ちた鳥も飛べるまで、子猫は段ボールごと拾い怒られました。 目黒でも、バス通りの真ん中を歩くメロンほどのアメリカ赤耳亀を保護し交番に届けたら「めいわく」と突き返され、家の庭に放したところ卵を10個ほど生んで失踪。 今でも同様に巣から落ちたつばめ、猫、トカゲ、蛙・・・。 写真はキジトラの捨て猫ピートと10歳の私。一緒に散歩した仲で、ある夜、近所の猫たちが座る不思議な円陣に参加。 みんなで何かを聞いて身づくろいをしてばらばらに。どうやって意思疎通するのかは不明でしたが、大人になって猫集会と知りました。

とっておき写真⑦ カワイ楽器のおもちゃのピアノ

写真は、ヤマハ音楽教室の発表会で合奏した仲間と。 私の両親は、音楽とまったく無縁。4歳の時に、父の友人宅で私と同年の娘が持っていたおもちゃのピアノに心を奪われました。 「おもちゃ」と言ってもカワイのグランドピアノの縮小版で音も本物。当時、母にねだったのはこれだけでしたが、かなわず。 代わりにヤマハ音楽教室の幼児クラスに入れられ、家では紙鍵盤にがっかり。しかし、おかげで小学校入学時に字は書けませんでしたが音譜だけは読めました。 中学1年までピアノを習い絶対音感がつきピアノの音を聞くと音程がわかります。これが教育大学音楽科への土台になりました。 カワイのおもちゃのグランドピアノは、今でも2万円近くします。家で内職をしていた母に買えるわけがありません。

とっておき写真⑧ 陸上だけピカイチ

私は球技が苦手で、ボールを投げると目の前に落ち、バットを振るとボールに当たらず、テニスのボールは屋根に上がる。サッカーやバスケットは、すみっこに行くので触らない。だから体育は3か4の通信簿。 ところが、陸上だけは高校生までピカイチでした。 特に、走ることと飛ぶことはダントツ。写真は、クラス対抗の函館市立北高校体育祭で、高跳び1位、100m走2位と、考古学部の私が陸上部を抑えて高得点をあげ、クラス優勝に大きく貢献しました。当時は、高跳びで150㎝を楽に越えていましたが、今は、水たまりを飛び越えるのがやっとです。 しかし、バーやハードルが高ければ高いほど燃えるのは、今も同じ。都政改革にダッシュです。

とっておき写真⑨ 北海道教育大学音楽科の恩師

高校3年の夏休みまで考古学専攻の大学進学を希望し母と全面対決。「教育大学音楽科を受験すれば次年度は好きにしてよい」と母が提案し私が折れました。実は高校1年時の担任だった寺本忠人先生が大学の音楽科講師になり私を受験させたのです。そこから半年、ピアノ、声楽などの集中レッスンで合格。 大学でクラリネットを教えてくれたのも、夏休みに演奏旅行に行けと押してくれたのも、吹奏楽部結成に招いてくれたのも、寺本先生でした。 付属中学校での教育実習では、高校での寺本先生の授業を手本に取り組み、実習生代表の公開授業に選ばれ最高評価をもらいました。 しかし、私は期待を裏切り音楽教師になりませんでした。寺本先生ごめんなさい。 写真での指揮者が寺本先生、2段目右端が私。 全国吹奏楽コンクール学生の部で金賞。

とっておき写真⑩ パックリと青い麦、うたごえサークル

大学1年生で「函館うたう会パックリ」に入会。大学生や短大生などが集まる「うたごえは平和の力」の学生サークル。 教育大生は私一人で通称「テコちゃん」に。音楽科は異色の存在で合唱指導、民謡、太鼓など大忙し。 2年生の時に、教育大学で廃部寸前のうたごえサークル「青い麦」を再建。このころ、「函館トロイカ合唱団」にも入団。 指揮者に連れられ武道館で開かれた「日本うたごえ祭典」に参加し民営化と闘う国鉄労働者「ナッパーズ」の歌に感動。上京後は「調布狛江合唱団」に。 そして、昨年、30年ぶりに目黒の「わの合唱団」に入りました。

とっておき写真⑪ 「教え子を再び戦場に送らない」と日本共産党に

教育大学で吹奏楽部、うたごえサークルの他に学生自治会運動にも参加。自治会は「核マル」に占拠され全国学生自治会連合会(全学連)に未結集。 学内で鉄パイプとヘルメットの学生がデモ、暴力事件も多発。 私は学内民主化の責任者で危険でしたが、大学の音楽棟は女学生がドレスを着てレッスンを受けるような別世界、「核マル」が踏み入ることはできませんでした。 音楽科の学生に守られクラス代表になり、自治会執行委員に立候補するも次点で落選。 こうした運動の中で、戦前から侵略戦争に反対し平和憲法を擁護してきた日本共産党を知り、「教え子を再び戦場に送らない」という戦後民主教育の原点に感銘して入党しました。 学生自治会は、卒業2年後に後輩たちが「核マル」を選挙で破り全学連に結集!

とっておき写真⑫ 調布学園からの出発

教育大学4年の夏休みから、一人で北海道や東京の児童福祉施設を次々と実習して歩きました。 その中で調布市にある児童養護施設・調布学園から就職の誘いを受け、1980年3月上京し指導員になりました。 卒業式にも出ず卒業証書は後輩が届けてくれました。 調布学園は保護者と住めなくなった子どもたちが暮らす施設。 親の離婚や家庭崩壊など、社会の矛盾が子どもたちに影を落としている現実に悩み、自らの無能さを痛感しました。 子どもの発達を勉強したいと思っていた時に保育園への誘いがあり、渋谷区の鳩の森保育園、日赤広尾の上宮保育園で保育士の仕事もしました。 今でも、子育て応援やこども食堂に取り組んでいるのは、この調布学園に私の原点があるからです。

とっておき写真⑬ 小泉選挙で衆議院東京5区に立候補

2005年8月8日、当時の小泉首相が「郵政民営化だ」と、突然、衆院を解散。9月11日投票で総選挙が始まりました。 私は、3月に子どもの卒業とともに区立第8中学校のPTA会長の任が終了。 肩の荷が下りたところに、突然、衆院東京5区に日本共産党から立候補することに。 「小泉劇場」と言われた選挙です。郵政民営化を唯一の争点に、奇襲的に仕掛けられた“小泉突風”のもとで、「たしかな野党が必要」と日本共産党が訴え、私は「憲法9条守れ」を公約に。 日本共産党は前回総選挙より約33万3千票伸ばし429万票を獲得、解散時の9議席を維持しました。 真夏の猛暑と、投票日直前だった誕生日も怒涛の中で過ぎました。 写真は、選挙本番。このタスキを今も使っています。

とっておき写真⑭ 東日本大震災、宮城県に米230キロなど支援

2011年3月11日、東日本大震災が起きたのは私が目黒区議会議員1期目の最後の年でした。 被災地から要望された支援物資を地域のみなさんにお願いすると、次々と寄せられてきました。 被災直後の気仙沼市への石油ストーブ、女川町仮設住宅へのミシン、青空市の物資、そして目黒区民のみなさんから寄せられた米は、仙台市に65キロ、女川町に165キロ、合計230キロを届けました。 特に津波が襲った女川原発がある女川町支援は5回にわたりました。 今年の5月の連休に高野女川町議が、突然、私に会いに来ました。 今度は、「都議になって女川原発再稼働を止めるために支援を」とのお話で、女川を自然エネルギーの拠点にするお手伝です。 秋にまた女川町に出かけるつもりです。

とっておき写真⑮ 区民参加で築地・豊洲視察ツアー。幻の豊洲市場写真に!

「問題の築地・豊洲市場に行きましょう」と区民に呼びかけ、2016年9月、10月、11月と3回、マイクロバスツアーを開催し,延べで50人を超える区民が参加。都庁の元臨海開発担当者、元東急建設社員、東京タワー職員、東京新聞職員、設計士、建設労働組合、カメラマンなど多彩な方々が参加し、「築地は老朽化しているが、臭いもなく効率的運営」「豊洲の汚染状況に驚いた」「官製談合としか考えられない」「豊洲は無理」など、様々なご意見を頂きました。都議選の大きな争点です。豊洲移転は直ちに中止を!築地で再整備を進めるために全力をあげます。幻の豊洲市場写真にしたいです。      

とっておき写真⑯ 施行70年、憲法記念日。憲法9条を守る新しい政治を!

「とっておき写真」のラストです。今年の5月3日、有明の公園で行われた憲法集会でのパレード写真です。 会場には、政党や思想・信条を超えた様々な市民が「アイラブ憲法」で5万5千人が集まり、「現行憲法が輝く新しい政治に切り替えよう」の呼びかけに会場から大きな歓声が起こり感動。 これこそ多くの国民の声です。同じ日、安倍首相が、右翼団体などの集会に「憲法9条を変え、オリンピックまでに憲法を変える」と表明。 主権在民も立憲主義も民主主義もすべて踏みにじる安倍政権は、絶対に許しません。 いよいよ都議選本番。首都東京から安倍政権の自民・公明に審判を下すために、持てる力をすべて出し切って頑張ります。 大きなご支援をお願いいたします。    
※「とっておき写真」は、17年2月18日から6月18日まで、週刊の「星見てい子事務所ニュース」に連載されました。