竹内愛

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竹内愛

竹内愛Takeuchi Ai

【主な経歴】

〇1976年生まれ〇福島県喜多方市出身〇県立喜多方工業高校電子科→日大工学部電気工学科卒〇照明アシスタント→東京土建労組板橋支部〇2003年区議選に立候補→26歳(当時区議会史上最年少)で初当選→現在5期目〇区議団幹事長・日本共産党板橋地区委員会副委員長・高島平二丁目団地自治会副会長〇高島平二丁目団地在住〇高2・中2・小4子育て中♪

ご挨拶

竹内愛

決意、姿勢、入党の動機など政治家としての原点

福祉の仕事に携わっていた母の影響で、幼いころから障害者や家族、支援者の方々との関りがありました。手話や身振り手振りで思いを伝えてくれる方やその思いを受け止めようとする周りの方々との出会いはかけがえのない財産です。こうした経験が互いを尊重することや、すべての人の権利を守ることへの思いにつながっていると感じています。私自身、ひとり親家庭で育ち、経済的にも困難な中、母や周りの方の後押しで大学に行くことができました。育った環境や性別、障害などによりやりたいことや進みたい道を制限されることなく、誰もが自分らしく生きられる社会にしたい。これが私の原点です。

しんぶん赤旗を配る

高校時代はボート部に入部し、選手として活動していました。漕艇場までは電車で通うので交通費や部費を賄うため、平日の早朝にしんぶん赤旗日刊紙の配達をしていました。遅れることも度々あり。日本共産党の党員や活動の生真面目さを痛感した3年間でした。

アルバイトを掛け持ちした大学時代

大学入学と同時に一人暮らしを始め、その生活費は奨学金とアルバイトで賄いました。舞台照明アシスタントと回転ずし店を中心に、長期休暇中は、ホテルの客室清掃、菓子工場や弁当工場を掛け持ちして働きました。学費を出してもらうだけでも年間120万円。同級生の中には、経済的な理由で大学進学を諦めたり、中退を余儀なくされた友人もいました。家庭の経済力によって人生を左右される社会に理不尽さを感じました。大学卒業と同時に背負うこととなった270万円余の借金は、とても重くのしかかりました。

建設労働者の命を生業を守る組合との出会い

竹内愛

大学卒業後、舞台やテレビなどの照明技術アシスタントととして就職しましたが、1年3か月余りで退職。再就職先を探しているときに見つけたのが東京土建一般労働組合で働く専従の募集でした。当時の私は労働組合のことも専従として働くということも具体的なイメージがなく、とにかく頑張ります!!という勢いだけでした。板橋支部で採用され、働き始めるとこれまで私がにわかに考えていた『権利』に対し、とても貪欲にかつ力強く向き合う組合員さんや先輩書記の姿がありました。書記としての経験を通じ、権利は当たり前にあるものではなく、たたかいの中で勝ち取っていくものという認識に変わりました。

26歳(当時、区議会史上最年少)で初当選

竹内愛

書記として働く中で、日本共産党に入党。私にとって、労働組合運動と日本共産党の活動は社会をよりよく変えていくという意味で矛盾のないものでした。そうした中で『区議選に出ないか』と言われたときは『えっ?区議って?議員?私が?なんで?』と正直戸惑うばかりでした。しかし、議員の仕事も社会をよりよく変えていくこととの言葉に背中を押され、私にできることがあるならと立候補を決意。右も左もわからずただただ突っ走った選挙戦でしたが、多くのご支援で初当選し、区政史上最年少議員(当時)となりました。

声を聞き、届け続けた20年

竹内愛

地域の先輩議員が続けてきたなんでも相談会を引き継ぎ、毎月開催してきました。相談に来る方のお話を聞き、弁護士など専門の相談につなげたり、時には役所の窓口に一緒に行き、手続きや困りごとを伝えるなど、ひとりひとりに寄り添うことを大切にして取り組んできました。相談件数はこの20年間で3600件を超えています。相談によっては、制度の創設や変更に繋がったり、社会問題として改善すべきことだったりと、個人的な悩みに留まらない事柄も少なくありません。『国民の苦難軽減のために力を尽くす』ことは、日本共産党の立党の精神でもあります。日本共産党の議員として、声を聞き、届けながら、誰もが生きやすい社会を目指していきます。