ご挨拶

困ってる人がいたら動かずにはいられない


新型コロナウィルス感染症や失業、収入減をはじめ、希望を持てない社会。
こんな日本の姿に胸を痛めます。誰ひとり置き去りにしない東京をと2期8年、都民の暮らし向上に取り組みました。
みなさんと力を合わせ、保育園・特養ホーム増設、コロナ対策をすすめました。
これからも、くらし子育て、福祉の安心な都政を目指して走り続けます。
困っている人がいたら動かずにはいられない。それが里吉ゆみです。

略歴

里吉ゆみ

1967年東京都八王子市生まれ。八王子市立由木中央小学校、由木中学校、都立日野高等学校卒、帝京大学部学部社会学科卒。
自動車火災保険会社勤務、日本共産党都議団事務局員、2003年4月より世田谷区議会議員3期。
2013年7月より都議会議員(現在3期目)、現在、都議会環境建設委員会委員長。
家族は、夫、一男、猫一匹。

●「ゆみ」という、ひらがなの名前をつけてくれたのは、母方の祖父。

母方では初めての孫だったため、祖父が名付けてくれました。生まれつき片足のかかとの骨が変形していましたが、小さい体にメスを入れるのは忍びない、と手術をしないで治療することに。小学校まで病院に通って治療しました。

●両親は小学校教員、共働きなのでいろんな方にお世話になりました。

両院ともに小学校の教員で日本共産党員という家庭で育ちました。母の育休が明けても当時は保育園は少なく、教員を退職した方に預けられました。保育園をたくさん作った時期で、妹は0歳から保育園育ちです。
小学校1年生のときは、近くに生んでいた同級生のお宅に預かってもらっていました。

●学童保育で楽しく過ごす

2年生のとき学童保育のある地域に引っ越し。4つ下の妹がいたので、4年生になっての夕方になると学童にお迎えに行っていました。

●両親のねがい「教え子をふたたび戦場に送るな」

両親は、教員として、日本共産党員として何よりも子どもたちのしあわせ、そして戦争のない平和な社会を、と活動していました。私の母の教え子だった友人から「里吉先生は、よく戦争を題材にした本を読んでくれたよ。でもいつも途中で泣いちゃうんだ」と聞きました。なによりも平和について子どもたちに伝えたいという母の気持ちが伝わってきました。

●中学、高校ではバレーボール部に

足の治療であまり運動できず、基本歴に運動は苦手でしたが、逆にだからこそ、スポーツを楽しみたかった。結果、朝から晩まで毎日バレーに明け暮れていました。ここで根性と体力がつきました。

●日本各地を旅して

帝京大学・文学部社会学科に進学。旅行サークル(早稲田大学・みの虫の会)に所属。
学業以外の空いた時間はバイトして、長期休暇になると日本各地を回りました。お金はなるべくかけないで、テントと寝袋を持って、公園で寝たり、ヒッチハイクしたり。沖縄の西表島、北海道の奥尻島などで1週間のキャンプなど、日本の豊かな自然を満喫しました。

●高尾山にトンネルを掘るなんて許せない-日本共産党へ

各地の豊かな自然に触れる中で、ゴルフ場建設などで自然が壊されていく姿も目の当たりにしました。そして地元・八王子で、高尾山にトンネルを掘る計画を知り、絶対に許せないと高尾山を守る運動に参加。都知事選挙を応援するなかで、日本共産党に入党しました。

●おかしいと思うことには、声をあげたい

就職活動のとき、女性ゆえの差別を感じました。目の前で豊かな自然が壊されていく、湾岸戦争で日本の自衛隊が専横に協力売る―これらを黙って見ていていいのか。高尾山を守る運動のように、おかしいと思うことには声を上げたいと思いました。
そして、核兵器反対の運動、八王子市で就職難の若者向けに合同就職説明会を開催させるなど、仲間たちとともに取り組みました。

●世田谷区議会議員として3期10年

2003年、区議会議員に初当選。
当時の世田谷区議団は3人のうち2人が新人。右も左もわからず、とにかく毎日、毎日、議会のことや生活相談などに追われる日々でした。区民の声を議会に届けようと必死でした。

区民の声を届け、論戦―区立幼稚園を守れ
自民党都議だった熊本哲之区長が誕生し、最初の所信表明で、「区立幼稚園の役割は終わった。区立幼稚園の全廃も検討する」と発言しました。この発言をきっかけに区内では、「区立幼稚園を守れ」と大きな運動が起きました。
保護者の方が4万筆もの署名を集め、負担も少なく、無宗教で、自由な遊びの中で子どもたちの人間性を育てる区立保育園がいかに素晴らしいか、たくさんのメッセージが寄せられ、共産党区議団は、この声を議会で繰り返しとりあげ、論戦しました。
この運動と世論で区立幼稚園全廃の方針を見直すことになりました。声を上げれば、政治は動かせると、保護者のみなさんのパワーを実感した運動でした。

京王線のバリアフリー化―長年の運動で実現
私の活動地域には、京王線の千歳烏山駅、芦花公園駅、八幡山駅と3つの駅があります。
区議会議員になって初めて区議会で取り上げたことのひとつが、3つの駅にエスカレーター、エレベーターの設置を求める、この問題でした。
八幡山駅は高架の駅のため上りのエレベーターはついていましたが、下りはついていませんでした。また千歳烏山駅、芦花公園駅には階段しかありませんでした。
2003年に質問したときには、設置場所や多額の費用などを理由に設置は困難という回答でした。
国会議員団の力もかりて、京王電鉄への要請行動を繰り返し行い、技術担当者の方ともお話をさせてもらいました。地域では、区議会あても署名にもとりくみました。
そして、3つの駅でのバリアフリー化を実現することができました。

地域の様々な問題を住民のみなさんと
8年越しの取組で墓地建設を中止に追い込んだ、「給田墓地問題」、明大八幡山グラウンド跡地にマンション建設が狙われていた問題では、反対する住民のみなさんと、地域の党が力を合わせ見直しを求め、結果的に計画は中止になるなど、地域問題にも取り組みました。
地元の老朽化した小学校の改修を求めて区議機で追及したときには、実際に壁にできた亀裂や天井の雨漏りのシミの写真をパネルにして迫りました。他会派も取り上げるなど、大きな反響があり、翌年には改修が決まり、動くときは一気に動くのだと実感しました。この時も保護者の皆さんが署名活動を行っていました。

区議会議員2期目に長男を出産――いろんな方に支えられて子育て
40歳を過ぎてから、長男を出産しました。「子どもは天からの授かりもの」と心からと思いました。子どもは好きだと思っていたけど、思った以上に子育ては大変でした。保健師さんの訪問は本当にうれしく心の支えになったことを覚えています。
産後2か月ほどで、保育園にお世話になりながら議員活動に復帰しました。当時は実家の母以外に3人くらいお手伝いに来てくれる方がいて、皆さんに育ててもらいました。

東日本大震災と原発事故――子どもを放射能から守れ
原発事故で東京の水道水から放射性ヨウ素が検出されました。私も含め小さい子を抱えた親は、ペットボトルの水を求めて走り回りました。学校給食の放射能調査の実施や、小学5年生が出かける、群馬県川場村の放射能調査など、「子どもを守れ」保護者の方と協力しながら取り組みました。

都議会議員補欠選挙へ立候補、そして都議会議員へ
2012年12月の総選挙と同時に世田谷区では都議選の補欠選挙があり、勇退するたぞえ元都議の後継者として、立候補。翌2013年の7月の都議選で初当選。