ご挨拶

「2 度と戦争をさせてはならない」
― 平和が原点

私の父は、戦争に行きシベリアに抑留された経験を持っています。
子どものころ、父が「まさか戦争になるとは思っていなかったが、あれよあれよという間に突き進んでしまった」と言っていた言葉が忘れられません。
学生時代には、原水爆禁止の運動にも参加しました。
平和が私の政治活動の原点です。
子どもや孫たちの世代に憲法9条を手渡すために全力をあげます。

略歴

浅川 修一

1955 年、山梨県高根町(現在の北杜市)生まれ。岩手大学工学部(現在の理工学部)卒。
自動車部品会社で働く。日本共産党立川・昭島地区委員会に勤務。
立川市議7期(通算)、都議1期、市長選に立候補、党衆議院東京21区予定候補などを歴任。
現在、党地区副委員長。

家の手伝いをよくした少年時代


実家が農家だったので、田植えや稲刈り、畑仕事などを良く手伝いました。田んぼだけでなく、乳牛などもいました。ほかにも、ホップやイチゴ、トマト、葉タバコなど色々な作物を作っていましたが、子ども心に作物が一定せずに、生活が安定しないと感じていました。
祖父は町長、父が町会議員を務めていた時があり、その様子を見ていて人のために仕事をすることは大変なことだと感じていました。
よくしゃべり、議論が好きで、生意気な子どもでした。ニュースで報道される科学技術の進歩や、学校での先生の話や本を読んで科学に関心を持ち、科学者になりたいと思っていました。しかし、長男だったため農家を継ぐのか悩んだこともありました。

多感な中学・高校生時代


中学ではバスケット部で活動しました。3年間ずっと補欠でレギュラーにはなれませんでしたが、毎日の練習は、楽しい思い出です。このころ、父親から戦争時代の話を聞きました。「まさか戦争になるとは思ってもみなかった。あれよあれよという間に突き進んでしまった」という言葉は、今でも忘れられません。
高校生になってからは、部活はせずに図書館などで本をよく読みました。この頃から、技術者に憧れるようになり、理系の大学に進みたいと考えていました。しかし、高校2年のときに急性肝炎になり勉強についていけなくなってしまいました。その代わり、ラジオの深夜放送にのめりこみ、セイヤングやパックインミュージック、オールナイトニッポンなどはがきを出してよく読まれましたが、不摂生で病気になりました。

岩手大学で平和や社会問題に関心を持つ


大学受験は、英語がほとんどできなく、ほかの科目で勝負しなくてはなりませんでしたが、岩手大学の工学部金属工学科になんとか合格しました。今でも、仕事が詰まって大変な時に見る夢は、英語の試験に落ちる夢です。
大学時代に、教育科学研究会サークルに入り、社会や平和問題に関心を持つようになりました。工学部の同法寮に入り寮長を経験しました。また、工学部自治会長も務めました。在学中に、原水爆禁止の署名などで盛岡市内の繁華街や住宅を訪問したことは、私の大学時代でも貴重な経験で、私の政治活動の原点です。
4年生になると、やっと勉学中心の生活になり、徹夜の実験を繰り返し卒論を仕上げました。データの結果と推論が一致せず苦労しましたが、あくまでも実験データが基本であり、それを重視することが大事だと学びました。

自動車部品会社で働き、赤旗出張所勤務に


大学卒業後は、昭島市にある自動車部品会社で働きました。大学で学んだこととは全く違う分野でしたが、技術者になりたかったので、仕事は楽しく職場の人たちにも良くしてもらいました。
そんな時に、赤旗出張所員にという誘いがありました。いろいろ悩みましたが、一度しかない人生を政治や社会問題に進みたいという強い思いがあり、要請を受けました。山梨の両親や実家からは反対されましたが、自分の思いを通しました。

市議会議員から都議へ


その後、元立川市議だった大山隆議員の後継者にという要請を受け、市議選に出馬し議員となりました。市議会は、慣れないことばかりでしたが、「徹底して調査を行おう」が私の信念でした。大学時代に学業を通して実験に取り組んだことが役立ちました。議会ではいつも、住民の要望に基づいて質問しているんだと自分に言い聞かせていました。
1997年に、都議候補の要請があり、悩んだ末に選挙に挑み、都議会議員になりました。質問準備には、たくさんの資料を読見込みが欠かせませんでした。
多くの都民の声を都政に届けてきました

立川ウドの振興を取り上げる

立川のウド振興を取り上げ発信・提案しました。関係者からは「初めて地元産業を取り上げてくれた」と感謝されました。

子ども医療費無料の拡充実現

子どもの医療費無料化を23区並に拡充することを求め、就学前までの補助を実現させました。

非正規労働社の待遇改善を要求

若者を無権利で雇い、使い捨てにするなと、議会で繰り返し取り上げ改善を求めました。