ご挨拶

【私の原点】政治も社会も変わるし変えられる
私の政治信条は「声をあげれば政治は変わる」です。これまで多くの青年や学生、子育ての仲間と一緒に、学費値上げや理不尽な働かせ方の改善、最低賃金アップ、待機児童解消や脱原発、核兵器廃絶の声をあげてきました。
一人ひとりの力は小さいけれど、力をあわせれば政治や社会は変えられる。人権や尊厳が守られる社会をめざします。

【私の信条】コロナ禍で見えた現実政治に希望を咲かせたい
新型コロナウイルスの感染拡大は、子どもや女性、高齢者など、弱い立場の人たちに深刻な影響を与えています。菅政権も、小池都政も、苦しい人たちの声に耳をかたむけようとしていません。
墨田区に生まれ育ち、子育てをして42年。ものづくりの街、庶民の街がコロナ禍のもとで活気を失っています。
私は、懸命に生きているすべての人たちを置き去りにしない街、東京にしたい。
政治に希望を咲かせるため、挑みます。

略歴

伊藤 大気

1978年墨田区生まれ。
堤小学校、鐘淵中学校、正則高校、阿佐ヶ谷美術専門学校を卒業
日本民主青年同盟東京都委員会に勤務・同副委員長(2003~08年)
現在、日本共産党東京都委員、墨田地区委員長・都政対策委員長、市民と野党の共同推進責任者
家族は妻と2人の子ども、趣味はパン作り。

下町生まれ、下町育ち――町工場の音、商店街の活気が原風景

 墨田区の鐘ヶ淵で生まれ育った私は、祖父が経営する工場や、当時数多くあった工場から聞こえる機械音が大好きな子どもでした。商店街は人が行き交い、ものの売り買いなど活気にあふれていました。そんななか、自由奔放に育ちました。

子どもの頃
名前の由来は、井原西鶴の「好色一代男」から

 両親は、男の子が生まれたら父が、女の子が生まれたら母が名付けることを決めていました。父は井原西鶴の「好色一代男」を読んだとき、主人公が「大気の気性をもって」問題を解決したという一文が頭に残り、「大気」とつけたそうです。
 思春期のとき「地球を包み込むような大きな気持ちをもった人間になれということか?」と重い気持ちになりましたが、私が幼少の頃に飾った七夕の短冊を発見。父は短冊に「親は子どもに名前のように育ってほしいなど願うが、そんなことは気にせずに、自分らしく生きてほしい」と書いていました。それを見て、すっと気持ちが楽になったことを覚えています。

高校時代
人間の骨格をつくった高校時代

 港区にある私立正則高校、自治、自律、自立をめざす学風に興味をもち進学しました。
 クラス自治を大切に、自らたてた目標を達成しながら校則を改善、3年時には制服自由化を勝ちとります。
 3年生のとき「平和学習旅行」で訪れた広島では被爆者のみなさんから原爆の実相を聞き、沖縄では沖縄戦の経験者や、96年に起きた米軍による少女暴行事件の実態について、米軍基地反対運動をされている方からお話を聞き、戦争は人間の尊厳を奪うこと、二度とくりかしてはならないという思いが強くなりました。
 幼少期に形成された戦争に対する思いが、高校で学ぶことによって、大きく成長し、世界から戦争も核兵器もなくしたいという思いが強くなりました。

 中学、高校の6年間、野球部に所属。硬式野球部に所属した高校の3年間は良い思い出に。「しごき」ではなく、科学的なトレーニング、野球理論を学ぶことで、野球やスポーツそのものを楽しむことができるようになりました。

受験競争の現実を知った浪人時代〜学生時代
政治も社会も変わるし変えられると実感した民青同盟

 幼少期の影響から、ものづくりや美術、工芸に関心があったため、美術方面に進学することを決意。大学受験に失敗し浪人生活に。新宿にある美大専門の予備校に通うことになり、絵が評価されることを初めて体験する。
 美大に合格する絵、そうではない絵、数時間かけて描きあげた絵が毎日評価される。志望する美術大学の学費は私立で200万から250万円。高すぎる学費を工面するために風俗やアルバイトで身体を壊す学生、狭すぎる定員のため、仲間への嫉妬、妬み、自己肯定感を失われ自傷行為をする学生の姿に、「ただ絵が描きたいだけなのに」「世界はどうなっているのか」と疑問を抱くようになる。二浪するも美大受験に失敗。阿佐ヶ谷美術専門学校に進学を決める。

 専門学校へ入学すると、高校時代に入っていた民青同盟の班があることを知る。
 声をかけられ学ぶことで、日本の学費が世界一高いことや、競争教育の背景に政治的な意図があることを知る。また、高すぎる学費も、奨学金の制度も、実態を集め、声をあげることで変えてきた歴史を知り、活動に積極的に参加するようになる。
 東京都内の学生自治会の仲間たちと一緒に文部科学省へ何度も要請し、私学助成金の拡充、学費の値下げ、給付制奨学金の拡充を求め、改善をすすめてきた。活動をとおして「政治も社会も変わるし変えられる」という思いが確信になっていった。

戦争のない世界、人間の尊厳が奪われない社会をめざして
日本共産党に入党

 専門学校に進学し、これまで自分が当然と思わされてきた現実について、問題の背景を学び、知ることで、社会や政治を変えたいという思いが強くなっていった。そんなとき、同じ専門学校の先輩に入党を呼びかけられる。両親が党員だったこともあり、入党を決意することは「親の敷いたレールに乗るようで嫌だ」「自分は政治的に中立でいたい」と断った。
 「共産党の語る社会像は理想に過ぎない」と母親と議論することもあった。母から「あなたは父親のなにをみてきたの」「ゴールのないゴールをめざしたたかっている」「戦争で子どもや女性など無辜の人々が犠牲にならない社会をめざし頑張っている。その背中を見ていないか」と問われた。
 そんなとき、父親と話をすることになり「中立でいたい」という私に、父は「極論だが」と前置きをしたうえで、物事には中立はない、例えば、目の前で戦争が起きた場合に、犠牲になる人と、戦争の加害者がいる。その時君はどちらの立場に立つのか。中立的に傍観する生き方を選ぶのかと問われた。「自分は戦争が嫌いだし、目の前で犠牲になる人を助けたい」と話すと、「それが君の答えじゃないか」といわれ、入党を決意した。

反戦平和、核兵器廃絶
NPT再検討会議に参加

 専門学校で学び、民青同盟の活動をとおして、「戦争も核兵器もない世界をつくりたい」という思いがより一層強くなっていく。世界の戦災孤児の救済を、芸術活動をとおして広げたいと思い海外留学を考えていた頃に、民青同盟の職員になってほしいと声をかけられる。
 世界一の軍事大国のアメリカと同盟を結ぶ日本が、日米安保条約を破棄し、憲法9条を生かした平和外交をすすめる国に変われば、どれだけ世界の平和に貢献できるかと考え、民青同盟の職員になることを決意。

 民青同盟東京都委員会の職員として活動していた2005年5月、NPT再検討会議に参加。東京原水協の派遣団・青年団の代表として、国連事務局次長(当時)だった大島賢三氏に面会。被爆者の実相を語り、核の傘から出て、核兵器廃絶の運動に先頭に立つように要請する。
 世界で広がる核兵器廃絶の輪、世論の変化を生で体験し、反戦平和・核兵器廃絶の運動がライフワークとなる。

最低賃金アップへ運動
ネットカフェ難民実態調査も

 「人間らしく働きたい」と声をあげた「全国青年大集会」(04年〜)に参加。働く青年・学生の実態を集め厚生労働省要請を何度も行う。当時710円(東京)だった最低賃金。「全国一律1000円以上に」と求め、東京都産業労働局にも要請。この運動は政府と自治体を動かし、いまでは1013円(東京)に。
 06年以降、社会問題と化した「ネットカフェ難民」について、厚生労働省はなかなか調査を行おうとしない。実態を掴むために現場に赴き聞き取り調査を行う。東京都内、全国各地で集められた実態調査をもとに厚生労働省に要請し、07年全国調査を実現した。

子育て世代の願い実現へ奔走!

 東日本大震災、福島原発事故後、区内のお父さん、お母さんがつくる「放射能から子どもを守る会」の活動に参加。12年に代表となり、小中学校の学校給食の線量測定、移動教室時の内部被曝対策など、くり返し議会に求める。
 「安保関連法に反対するママの会」に参加。墨田区で有志があつまり「墨田の会」を結成。事務局長となり、講演会、パレードにパパとしてとりくむ。
 保護者、保育関係者が集まり、公的保育を守り、待機児童解消を求める「よりよい保育を@すみだ」の活動に参加。当時子どもが通う保育園の父母会長をやっていたこともあり、活動の先頭にたつ。

 子育て世代、地域の青年有志とともに原発事故のその後を知るためのツアーを計画。
 被災地の現状や、復興の困難さを現地のみなさんから聞くなかで、日本政府のとっている原発政策の理不尽さ、自助努力頼みの復興のあり方に怒りを抱く。

若者が希望をもてる社会、政治をつくりたい
夢半ばで亡くなった親友の思いを胸に

 美術専門学校時代、同じ地域にある介護・福祉専門学校に通う学生、S君も一緒に活動をしていた。「おばあちゃんの介護経験から、介護・福祉士になることが夢なった」というS君は学校を卒業し、地元の特別養護老人ホームに就職することに。就職してから共に忙しく連絡をやり取りできなくなっていたあくる日、彼が6ヶ月以上前に亡くなっていたという突然の訃報が知らされる。
 突然のことに彼の実家に駆けつけるとお母さんから、当時のことを教えてもらった。
 若く元気でムードメーカーだった彼は、夜勤も積極的に入り頑張っていたそうです。彼が担当になっていたお婆さんは「これまで職員に心を開いていなかったけど、息子が担当するようになり笑顔を見せるようになった」と話すお母さん。「けれど仕事の疲れがたまった夜勤明けの帰宅時、居眠り運転中に衝突事故を起こして亡くなってしまった。即死だったそうです。亡くなったことも息子はわからないんじゃないかな」と話す姿はいまでも忘れられません。4月に勤務してから2ヶ月間しか経っていない、享年20歳でした。
 「政治がいのちを奪うこともある」――学生時代に学び、活動するなかで感じたこともあったが、親友が亡くなるなんて。
 介護・福祉現場で懸命に働いているみなさんを支える政治がないために、夢をもち働く青年が、いのちを削るような労働環境におかれている、その現実を変えなければならい、それが私の十字架になりました。